沼田流人『監獄部屋』1928年の発禁をめぐって

【沼田流人『監獄部屋』1928年の発禁をめぐって】

 沼田流人の『監獄部屋』(金星堂、1928年5月)は発禁となった。こんにち、その発禁となった『監獄部屋』の内務省検閲本が、国立国会図書館デジタルライブラリーにより無料で、またAmazonKindle版により有料で、制約なく見ることができるのは、まことにありがたいことである。

 この『監獄部屋』内務省検閲本は、戦後にGHQによりアメリカに移送され、その後日本に返還されたという経緯がある。(GHQの管理となされなければ、日本のお役人により廃棄処分となったおそれもあったのではないかと推察する。)

 わたしが購入したAmazon Kindle版では、その見返しに「佐伯」と捺印した上、発禁とすべき理由が手書きされている。

《坑夫生活ノ内面生活ヲ描写セルモノナルモ余リニ惨虐非道ニ就キ 禁止可然哉》

このようにして上司にうかがいをたて、「風俗壊乱」と判断され、発禁となったと思われる。

 

 

山本潔先生追悼

山本潔先生追悼

 山本潔先生(東京大学社会科学研究所、名誉教授、労働問題研究)が、2020年12月末に亡くなられていたことを、遅ればせながら知った。『日本における新左翼の労働運動』の著者の一人。わたしが東大出版会において編集部に異動して最初に担当したのが先生の『自動車産業の労資関係』(1981)だった。(原稿のままに作っただけです。)
 その後も、単著として『日本の賃金・労働時間』(1982)、『日本における職場の技術・労働史』(1994)、『日本の労働調査』(2004)、編著『日本の労働争議』(1991)を担当したし、また論文集『労資関係・生産構造』(ノンブル社)などのお手伝いをした。(いずれも、類例のない、新しい領域を切り拓く研究です。)
 読売争議、東芝葬儀などの戦後労働争議史の著作を持つ先生は、資本主義社会のもとにおける労資関係を、あたかもレントゲン写真で透視するような調査研究をするとともに、調査方法論についても極めて自覚的だったと思う。(それが、逆に、師である氏原正治郎先生からの批判を招いたのは悲劇的でした。)
 活版時代の印刷所の労働調査もされた先生は、原稿の組み方、特に複雑な表の組み方については、現場に迷惑をかけないような配慮をすると共に、印刷所の(場合によっては出版社の)手抜きの杜撰な仕事に対しては(当然ながら)厳しい姿勢を示した。わたしが、本作りにおける印刷所との関係のあり方について最も学んだのは、山本先生からであった。
 おそらく霊を信じない唯物論者であったと思うので、「霊前」という言葉は使わないが、出身地の旭川をいつも懐かしく語られていらっしゃった山本潔先生に対して、心よりの哀悼の意を表します。(あれだけ、親密に付き合ったのに、わたしは先生の写真一枚も持っていないなあ。)

沼田流人「地獄」についての武者小路実篤の雑感

沼田流人「地獄」についての武者小路実篤の雑感

武者小路実篤『文藝雑感』(春秋社、1927年6月5日印刷)に、沼田流人「地獄」について触れた「文藝雑感」という文章がある。北海道は倶知安のタコ部屋を描いた「地獄」は『改造』1926年9月号に掲載されている。武者小路のこのの文章の末尾には(28.10.12)と記載されていて、これは正しくは1926.10.12と推測される。つまり、「地獄」発表すぐに読み始めたものと思われる。
以下がその雑感の一部。
《沼田流人「地獄」もまだ全部よまない。文章がもう少し簡単明瞭で、大げさな形容をへらしてくれたならばすごい感じがうき出すと思ふ。実際こんな世界が日本にあることは昔からわかつてゐるのになくすことのできないのは、日本に何のために警察があるのかわからない。社会主義者の宣伝よりは、かう云ふ事実の火の如き、或は血みどろの宣伝の方が遥かに恐ろしいことは知つてゐるはずだ。人命の詐欺を黙認することはよくないことである。》28-29ページ

梅田滋『存在の淋しさ 有島武郎読書ノート』に寄せて

梅田滋『存在の淋しさ 有島武郎読書ノート』に寄せて
 
竹中英俊(北海道大学出版会相談役)
 
 有島武郎は「北海道文学の父」と言われる。確かに「カインの末裔」や「生まれ出る悩み」「星座」などは北海道に深く根差した作品であり、その呼称は正しい。しかし、一方、有島の作品を今日読み直すと、それは「北海道」という場を胎盤として生まれ育ったものでありつつも、それを超えて、作品の場そのものを問い直す、そして人間の存在を問い直すものであることに気付くのではないだろうか。「存在」は、あなたの/わたしの「アイデンティティ」あるいは「居場所」と読み替えてもいい。
 ここに今年5月に刊行された梅田滋『存在の淋しさ 有島武郎読書ノート』(共同文化社)がある。今年2023年は、有島が軽井沢で婦人公論の編集者波多野秋子と心中してちょうど100年となる。しかし本書は、そのようなセンテニアルに向けて企画され出版されたものではない。
 本書は、ニセコの有島記念館と歩む会「土香る会」での10年近くにわたる有島作品の月例読書会に、課題作品に即して提出した著者の31編の読書ノートに、東アジアにおける有島文学の位置についての考察を加えてまとめあげたものである。
「自分の心だけで作品を読んだ」と著者が述べているように、本書は有島の創作・評論・遺書のほぼ全てに眼を通しての内的対話・自己対話の記録である。「自分の精神の在りようを見続ける」著者の一貫した姿勢から紡ぎ出される言葉は、「愛」と「階級」の問題を中心的なテーマとした有島作品の根底と、私たちの存在を脅かすものの根底に垂鉛をおろしているように思える。
 特に、末尾、波多野秋子との情死に至る道行きついて、有島の遺作、秋子の遺文や友人の証言に基づきつつ、あたかも有島が著者に憑依したかのように、つまり、有島が梅田か、梅田が有島か、と見紛うばかりの文章を著者が綴っていることに戦慄する。そして、有島は秋子に『或る女』の主人公葉子を見たのではないかという示唆は、紙背に徹した洞察であろう。
 有島の言葉「存在の淋しさというよりももっと深いもの」――この有島の「アイデンティティの裂け目」は超えられたのか。その課題は、百年前に有島の直面したものと相似形でもって、今のわたしたちに迫る。
 本書は、有島武郎の入門書ではない。しかし、時代の困難に向き合いつつ、一寸先の光も見出せぬ未来をまさぐろうとする「生きることの初心を忘れぬ」人にとって、有島の諸作品と本書『存在の淋しさ』は、数少ない手がかりになることを確言する。


「道はなし世に道は無し心して荒野の土に汝が足を置け」(有島武郎の絶筆短歌十首より)

 

『季刊アイワード』19(2023.10)掲載
 

倶知安の作家沼田流人のこと

 f:id:Takeridon:20231120003140j:image札幌から帰った12日から1週間余、倶知安の作家である沼田流人(1898-1964)に没頭していました。北海道のタコ部屋(監獄部屋)を描いた岩藤雪夫「吹雪」について書いたSSN拙文について、岡和田晃氏から沼田流人『監獄部屋』があることを教えられ、その1週間も経たないうちに、『存在の淋しさ 有島武郎読書ノート』(共同文化社)の著者である梅田滋氏に札幌でお会いした時、喜茂別に住まいの氏が倶知安の作家である沼田流人を話題にされて、その偶合に驚いた次第です。
 司書職の新谷保人氏がその「人間像ライブラリー」において、沼田の作品および関連の文献を電子化されていることを梅田氏から教えていただき、それも含め、下のリストにあげたように、沼田の作品および関連文献の主要なものに目を通しました。沼田流人をどう捉えるかについては、読後感の発酵を待って整理できれば、と思っています。
 ひとつだけ記しておきます。『種蒔く人』東京版創刊号(1921.10.3)に沼田流人の小説「三人の乞食」が掲載されていることには驚きました。かねて『種蒔く人』については関心を持ちながら、全く見落としていましした。
 沼田は有島武郎と手紙のやり取りをしていたようです。沼田の倶知安、有島の狩太。羊蹄山の麓にある、有島および沼田ゆかりの地を訪ねてみたいと思いました。

【読書リスト】
「三人の乞食」『種蒔く人』東京版創刊号 1921年(大正10年)ーー人間像ライブラリー
『血の呻き』叢文閣1923年(大正12年)6月ーーNDLデジタルコレクション
キセル先生」1925年1月小樽新聞ーー人間像ライブラリー
「地獄」『改造』1926年(大正15年)9月(北海道文学全集 第6巻 、1980(昭和55)年6月に再録)ーー未読
『監獄部屋』―金星堂1929年(昭和4年)2月ーーAmazon Kindle
「監獄部屋の人々」『日本残酷物語 第五部』平凡社1960ーー人間像ライブラリー

佐藤瑜璃「父・流人の思い出』 防風林1987(昭和62)年7月~1992(平成4)年4月連載ーー人間像ライブラリー
武井静雄「沼田流人小伝」防風林1990(平成2)年1月~1991(平成3)年10月連載ーー人間像ライブラリー
武井静雄「沼田流人伝」防風林1992(平成4)年3月発行ーー人間像ライブラリー

戸塚秀夫「日本帝国主義の崩壊と「移入朝鮮人」労働者──石炭産業における事例研究」について

最高気温32度にもなった今日、蔵書整理のために、辻堂の冷房なしの作業場に詰めていた。暑い。整理中、ふと隅谷三喜男編著『日本労使関係史論』(東京大学出版会1977)が目にとまった。かつて夢中になって読んだ研究書である。

 目次は次の通り。

 第1章 工場法体制と労使関係  隅谷三喜男
 第2章 第一次大戦前後の労資関係──三菱神戸造船所の争議史を中心として  中西洋
 第3章 昭和恐慌下の争議──1932東京市電気局争議に即して  兵藤釗
 第4章 日本帝国主義の崩壊と「移入朝鮮人」労働者──石炭産業における事例研究  戸塚秀夫
 第5章 戦後労働組合の出発点  山本潔

いずれも力作であるが、特に記憶が残っているのは、第4章の戸塚秀夫論文。北海道夕張炭坑での、一時期は7000人もにのぼる「移入朝鮮人」を対象として、その戦時における抵抗運動、そして戦後における先進的労働組合運動の展開という仮説のもとに、聞き書きを含めた実証研究をすすめた。その成果としての論文であるが、結果として、「移入朝鮮人」による抵抗運動はさしたるものもなく、また戦後における主体的な労働組合運動もなかったという結論となった。仮説が実証研究によって裏切られたのである。

 このギャップについて戸塚先生に、論文発表後数年してから直接問いただしたことがある。その返答がどうであったのか定かな記憶はない。しかし、先生からは別のことをお聞きした。

「わたしは、朝鮮人労働者の抵抗運動についても先進的労働組合運動についても、流布している噂とは異なって、さしたるものがみられなかったということを実証的に明らかにしたつもりだったが、この実証的な論文について、朝鮮人労働運動をおとしめるものだという批判があちこちからあって戸惑った。その気持ちは分からないでもないが、しかし、研究者としては事実は事実として明らかにしなければならない。そのことをおろそかにしては労働問題研究は成り立たない。」と。

 その通りと思った。しかし、戸塚先生は、その後、「移入朝鮮人」労働者をテーマとした研究については関係者の協力は得られなくなり、続稿を書き継ぐことはなかった(と思う)

 

杉森久英『滝田樗陰』

杉森久英『滝田樗陰』(中公新書1966)読了。本名哲太郎の滝田樗陰は秋田市1882年の生れ。樗陰の号は高山樗牛に因むものという。

東京帝国大学在学中から雑誌「中央公論」の編集にたずさわり、同大中退後、『中央公論』の編集者として、文芸欄の充実に力を尽くし、また吉野作造などの担当者として活躍し、名編集者としてうたわれたひとである。

著者の杉森は、滝田没後ではあるが、戦前期に中央公論社に勤めるなどした人であり、滝田を知る人からの聞き取りも踏まえて本書をあらわした。若き日の滝田、中央公論編集者としての縦横無尽(時に傍若無人)の活躍、そして明治末〜大正期の時代を先導しつつ、大正後期に時代に取り残され、1925年に43歳で病没する生涯を、様々なエピソードをまじえて描いている。

雑誌編集者と書籍編集者は異なるが、時代との相関において、身のつまされる思いも抱いた。

(同じ秋田出身の『種蒔く人』の同人グループを執筆者に採用しなかったという逸話も、編集者とは何かを考える上で示唆的である。)