有島武郎と足助素一:札幌の貸本屋独立社とその系譜

有島武郎足助素一:札幌の貸本屋独立社とその系譜】

 藤島隆『貸本屋独立社とその系譜』(北方新書、北海道出版企画センター、2010)。

本書は、第一部「貸本屋独立社とその系譜」と第二部「北海道の貸本屋と図書館」との二部構成となっている。このような、読書をめぐる基礎的事実を調べた地味な基本文献を「新書」という、読者にとって手に取りやすい、そして相対的な廉価で提供する版元の姿勢に敬意を表したい。

 以下では、有島武郎(1878-1923)と足助素一(1878-1930)のつながりを、また足助の起こした独立社の流れを、第一部「貸本屋独立社とその系譜」に探ってみたい。

 独立社は、有島武郎の知友でありその著作集を刊行した叢文閣を東京で起こした足助素一が、小樽〜札幌にいた時、1907年から数年間、札幌の街に開いた貸本屋兼古本屋である。札幌農学校北海道帝国大学への転換期において、大学生だけではなく思想形成期の若人が多く集った開かれた空間としての独立社が注目される。足助は、独立社の経営者であると同時に、そこに集う人びとの一員であったのである。

 1914年、足助が教師としても関わった(新渡戸稲造が始めた)遠友夜学校に独立社の資産全てを委譲し、自らは上京して、叢文閣を起こす。この独立社の委譲とその後の運営には有島も関わっていて、その簡単ではない運営について、足助に何度か手紙で報告している。

 独立社は遠友夜学校の運営をへて、1915-22年、夜学校卒業生の興膳辰五郎が担った。さらに、1922年2月、有島の援助も得て田所篤三郎が貸本屋創建社を開業した。しかし、この創建社は社会主義者に巣窟、若い男女が集う場とみなされ、22年9月札幌署高等係により田所や十文字仁など数人が引致され、その結果、短期間で消滅する。この田所については有島の作品「酒乱」(『泉』2巻1号、1923.1)の、十文字仁については「骨」(『泉』2巻4号、1923.4)のモデルであるとされる。また田所には『有島武郎の思出』(共成舎、1927)という本がある。

 創建社は、時をおかず、棚田義明に再現社として引き継がれ、更に1925年に白羊社の奥出三郎に継承されるが、奥出は札幌署特高による家宅捜索の対象となったりして、白羊社は1927年末に幕を閉じた。

 経営する者も、また店の名前も変わったが、足助の貸本屋(古本屋)は1927年末頃まで20年以上にわたって、札幌の街に存続したのであった。足助もまた、1930年、病により歿する。足助については歿後、秋田雨雀ほか編『足助素一集』(叢文閣、1931)が出され、その中には、独立社の蔵書目録が掲載されていて興味深い(本書にも再掲されている)。

 最後に、足助の独立社に出入りした吉崎研亮の歌集『民衆の太陽』(1918)には収録された歌を紹介する。

  有島さんがかきしと云ふ

  わが独立社の剥げし画看板

この歌にも足助の独立社と有島のつながりが示されている。また、有島は自らの蔵書を、この独立社の系譜の貸本屋に提供してもいる。

 なお、本書38頁に、有島とも足助とも深い関係の吹田順助(1881-1963)の自伝『旅人の夜の歌』に、一同が関わった「社会主義研究会」の写真が掲載されていた。ちなみに、この写真の背景の「東北帝国大学農科大学附属図書館」は、後年「北海道帝国大学附属図書館」時代に札幌出身の作家である島木健作が務めたところであり、竹中が相談役を務めている北海道大学出版会の事務局につながる施設である。

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