タコ部屋の飯を食った作家佐左木俊郎(つづき)

【タコ部屋の飯を食った作家佐左木俊郎(つづき)】

 文芸誌『新潮』の編集に携わった楢崎勤1901−78)に『作家の舞台裏:一編集者のみた昭和文壇史』(読売新聞社1970)がある。そこに、小林多喜二の作品『蟹工船』『不在地主』についての佐左木俊郎の評価が記録されている。

 そして、《佐左木は、ある時期、土工となって「監獄部屋」同然の飯場生活をつぶさに体験している》と楢崎は書いている。楢崎は新潮社で佐左木と同僚。ということは、監獄部屋=タコ部屋同然の飯場生活を体験したというのは、佐左木からの直話と解してもいいだろう。

 ではいつ、どこでなのか? 前回にあげた和田芳恵の『ひとつの文壇史』では「北海道のたこ部屋」と明記してある。佐左木俊郎は1915-16年、十勝に滞在しているが、その時は池田機関庫に勤め、浦幌、池田、新得にいた。可能性としてあるのは、渡道して池田機関庫に勤める前。15歳の時である。

 もうひとつの可能性とは、新潮社に職を得る前、関東大震災によって失職した時、東京で土工として働いていたことがある。ただ、この時は同棲していてタコ部屋に入っていたとは思えない。

 さて、どう考えるべきか?

 

 以下、楢崎著248ページより引用:

ここで文芸批評家のほとんどが採りあげていない佐左木俊郎の「蟹工船」、「不在地主」評を紹介しよう。

「彼の作品には何れにも、他人から聞いて書いたというような、自分のものになって居ないところが沢山ある。『蟹工船』の中の規約書など、全然、監獄部屋のと同じだし、『不在地主』の中へ出て来る北海道の農村は、非常に現実と違ったところがあり、文学的現実にまで書いていない。(略)北海道の農村なら一番近いところに居るのだから、其方も勉強して貫いたいものだ」

 佐左木は、ある時期、土工となって「監獄部屋」同然の飯場生活をつぶさに体験しているだけに絶対的リアリティといわれる「蟹工船」の虚構の面を指摘、暴露しないわけにはおれなかったのであろうし、また、北海道の農村地帯で数年間の生活を経験しているだけに「不在地主」の舞台の北海道の農村が、「現実」と非常に異っている点を指摘したのである。

 なお、小林多喜二とは、二三度、手紙のやりとりをした。そのころ小林は、北海道拓殖銀行小樽支店に勤務していた。手紙は、その銀行の便箋をつかっていた。》