更科源蔵『凍原の歌』の〈戦争詩〉をめぐって

 沼田流人『監獄部屋』の1928年発禁〜29年改訂版発行について、当時の内務省検閲官を務めた詩人の佐伯郁郎についてSNSで発信したところ、北海道立文学館の理事・青柳文吉さんから論考「更科源蔵『凍原の歌』の〈戦争詩〉をめぐって」を送っていただいた。これは、2007年に北海道立文学館で開催された「更科源蔵生誕100年 北の原野の物語」の図録に収録された論考である。更科源蔵(1904-85)は北海道弟子屈生れの詩人・アイヌ文化研究家として著名な人である。

 その更科の『詩集 凍原』は戦局が日に非となる1943年10月にフタバ書房成光館から刊行されたものである。この詩集の出版経緯について、更科源蔵『札幌放浪記』では、佐伯郁郎の力によって原稿を送ったと書き、佐伯の勧めにより時局ものの戦争詩を入れたと書いている。時局ものの出版は紙の特別配給を受けられたという。

 青柳さんの考察によれば、内務省の役人で検閲官を務めた詩人佐伯郁郎は、1936年に更科源蔵のいる弟子屈に行って対面したという。そして、1941年早々に更科は新たな詩集出版を佐伯に打診し、佐伯はまず出版社の興風館に仲介した。同館の編集者村上信彦(戦後に『明治女性史』などを著す)は、詩集の構成案において、性格の異なる「戦争詩」を外すことを提案した。これに佐伯も更科も同意するが、興風館によるこの企画は(時局向きの出版ではないためか)印刷用紙の配給が受けられず、この興風館からの出版企画は1941年暮れに立ち消えとなった。

 ついで、同詩集企画の出版がフタバ書店に決まったのが1943年1月。一年ほどのブランクがある。この企画の出版承認が下ったのは5月、2000部。この間、詩集は、更科が興風館に提示した際の時よりも「戦争詩」を増やす構成に変更された。つまり時局の色彩を一層強めたのである。

 青柳さんによる、編集者の朱筆が入った完成稿についての調査によれば、この完成稿の表紙には「査定資料」と墨書されており、「実質的な検閲である出版申請書類として当局に提出したと思われる」とのことである。この当局とは内務省警保局図書課を指すのであれば、印刷された書籍段階で検閲を受けるのではなく、事前の原稿段階で査定を受けていたことになるのだろうか。

 青柳さんの考察で面白いのは、この「査定」ののちに、更科は、既に出ていた校正刷に、更なる「戦争詩」の原稿を追加したことである。このことから、詩集に「戦争詩」を入れたのは、佐伯郁郎の指嗾によるというよりも、更科自身の意図だったと推察される。青柳さんの言うように、戦時下において出版に踏み切るには、戦争詩篇を入れることは「更科が、詩人として〈当然〉の営為であると考えていたことは恐らく事実であった」。

 とても刺激的な考察である。