山本直人『亀井勝一郎』(ミネルヴァ書房2023)を読む

 山本直人亀井勝一郎』(ミネルヴァ書房2023)読了。『大和古寺風物詩』(新潮文庫)などを除き、あまり読まれない批評家となっている。亀井勝一郎Who?という人のために本書の出版社によるコピーをアレンジして紹介する。
 亀井勝一郎(1907−66) 北海道函館出身。山形高校を経て東京帝国大学文学部美学科に入学。新人会教育部長を務め、政治運動にのめり込み退学。三・一五事件後に検挙され、転向上申書を出し釈放されるが、日本プロレタリア文学同盟(ナルプ)に加わり文芸理論家として活躍。小林多喜二虐殺〜ナルプ解散ののち「日本浪曼派」に参加し、太宰治保田與重郎らと知り合う。戦時期は美術批評と宗教論、戦後は文明批評を展開。晩年は『日本人の精神史研究』に全力を注ぐ。
 本書は、全集未収録の作品のほかの資料を博捜した上で、亀井の生涯をその内面に踏み込みながら描いた力作である。若年にして「富める者」の罪を自覚し、革命運動と詩心の狭間で苦悩し、転向、ロマン主義と大和巡礼、敗戦、文学者の戦争責任を受け止めて文明批評の道を歩むーー日本近代の一人のインテリゲンチャの姿が浮き彫りにされる。
 亀井自身が自らを「現代人の一標本」と自覚して(生活費稼ぎを含めて)膨大な量の著作を残しただけに、評伝の対象としては扱いにくかったの思われるが、本人のみならず、さまざまな友人知己、そして夫人の透徹した文章を配置しながら綴られた本書は、亀井個人を超えた日本近代人の姿を表出したものとして評価されるべきだろう。
 それにしても、奥野健男が言うように、明治期の函館に生まれ育った亀井が、転向を経て見出したのが「大和」であったのは、大いなる錯誤であったのではないだろうか。自己反省として言うのだが、亀井のライフワークとした「日本人の精神史」は、文字言語を超えたものとして、「大和」をはるかに超えるのだから。

 その奥野健男の亀井を追悼する文を引用する。

亀井勝一郎氏は、小林秀雄保田与重郎らと共にぼくたち戦争期の青年にもっとも大きな影響を与えた評論家であった。/いちばん美しく生きることは、いちばん美しく死ぬことである、という亀井さんのことばは、死に直面していた当時の青年たちにとって、強烈な印象と大きな救いを与えてくれた。そのころの青年たちは、亀井さんの覚悟をみつめながら、自分の生き方を探っていたと言っても過言ではない。》本書243頁

 

 

大井赤亥『政治と政治学のあいだ 政治学者、衆議院選挙をかく闘えり』(青土社)について

 大井赤亥『政治と政治学のあいだ 政治学者、衆議院選挙をかく闘えり』(青土社)読了。政治の「学」としても、政治の「実践」としても、とてもおもしろかった。全3部構成の「第I部 1993年体制をめぐって」は大井さんの『武器としての政治思想』『現代日本政治史』を発展させたもの。「第Ⅲ部 日本政治のヴィジョンをめぐって」は、モデルのない政治・国際政治・世界構想めぐっての暗中模索の思考の試行。その間の「第Ⅱ部 2021年衆議院選挙を闘って」は、まさに政治学者が参加主体となってのフィールドワークの報告であり、オートエスノグラフィーとでも言ってもいい、類まれなものである。

 著者は、立憲民主党衆議院議員選挙に参戦するにあたって、スピノザの「嘲笑せず、嘆かず、呪わず、ただ理解せよ」を肝に銘じる。その上でのそのレポートである。

 コロナ禍で強いられたドブ板選挙の中で掴んだもの。例えば、有権者による政治の使い方について。また、「公共」と「民間」の新しい関係についての模索。

 《選挙とは、政治家に有権者と「接触」を強いる契機であり、それゆえ政治家は、資格勉強がもたらす「合理性」とは異なる、市民社会の「合理性」に肉薄する。 実際の人間の生活 は上から計画運営したり、将棋の駒を動かすように差配したりできない。その意味で、選挙というのは「政治家に地域を這いずりまわらせる工夫」 であり、「社会の中に入れ、人々の声を聞け」とい う憲法の要請なのである。》145頁

 そしてまた、学術出版に携わるものとして、次の一文には全く共感。そうなんですよねえ。

政治学者として学術書を出版していることは、選挙には何も役に立たないどころか、むしろ不利であったといってよい。そういったものが目に留まると、「こいつは空理空論ばかりだな」、「現実を教えてやる」といわんばかりの人も出てくるのである。げに、選挙とは 「学術」に対する反撃と発散の場でもあったのである。》149頁

 この情勢、政治に絶望し、何らの期待もできないと思う人々に、希望を説くのではない本書をお勧めする。

岡崎文吉の墓と生前墓

【岡崎文吉の墓と生前墓】

石狩川治水の祖」と言われ晩年は茅ヶ崎で過ごした岡崎文吉(1872-1945)が葬られたのは杉並区永福駅近くの法華宗の理性寺(りしょうじ)である。今日、茅ヶ崎岡崎文吉研究会の有志とここを訪ね、雨の中、香華を手向けた。捧げられた卒塔婆を見ると、今日に至るまで、一族の法要が営まれていることがわかる。

ここにたつ墓石の御影石に「岡崎家墓」および両親の名前が刻まれ、横に「大正六年建之工學博士岡崎文吉」「永代祀堂料納付」とある。岡崎文吉が大正3年に工学博士となり7年に石狩川治水事務所を去る間に墓を建てたことが印象付けられる。

墓の一角には樹齢の長い赤松が聳えるこの墓の地に立つと、岡崎文吉が茅ヶ崎の自宅敷地に自らの業績碑を生前墓としてを作ったことは、戦時を憚る便宜的な措置であったことがよくわかり、自らはここに葬られることを自覚しての業績碑・生前墓建立であったのではないかと偲ばれた。f:id:Takeridon:20240224002018j:imagef:id:Takeridon:20240224002051j:image

 

有島武郎と足助素一:札幌の貸本屋独立社とその系譜

有島武郎足助素一:札幌の貸本屋独立社とその系譜】

 藤島隆『貸本屋独立社とその系譜』(北方新書、北海道出版企画センター、2010)。

本書は、第一部「貸本屋独立社とその系譜」と第二部「北海道の貸本屋と図書館」との二部構成となっている。このような、読書をめぐる基礎的事実を調べた地味な基本文献を「新書」という、読者にとって手に取りやすい、そして相対的な廉価で提供する版元の姿勢に敬意を表したい。

 以下では、有島武郎(1878-1923)と足助素一(1878-1930)のつながりを、また足助の起こした独立社の流れを、第一部「貸本屋独立社とその系譜」に探ってみたい。

 独立社は、有島武郎の知友でありその著作集を刊行した叢文閣を東京で起こした足助素一が、小樽〜札幌にいた時、1907年から数年間、札幌の街に開いた貸本屋兼古本屋である。札幌農学校北海道帝国大学への転換期において、大学生だけではなく思想形成期の若人が多く集った開かれた空間としての独立社が注目される。足助は、独立社の経営者であると同時に、そこに集う人びとの一員であったのである。

 1914年、足助が教師としても関わった(新渡戸稲造が始めた)遠友夜学校に独立社の資産全てを委譲し、自らは上京して、叢文閣を起こす。この独立社の委譲とその後の運営には有島も関わっていて、その簡単ではない運営について、足助に何度か手紙で報告している。

 独立社は遠友夜学校の運営をへて、1915-22年、夜学校卒業生の興膳辰五郎が担った。さらに、1922年2月、有島の援助も得て田所篤三郎が貸本屋創建社を開業した。しかし、この創建社は社会主義者に巣窟、若い男女が集う場とみなされ、22年9月札幌署高等係により田所や十文字仁など数人が引致され、その結果、短期間で消滅する。この田所については有島の作品「酒乱」(『泉』2巻1号、1923.1)の、十文字仁については「骨」(『泉』2巻4号、1923.4)のモデルであるとされる。また田所には『有島武郎の思出』(共成舎、1927)という本がある。

 創建社は、時をおかず、棚田義明に再現社として引き継がれ、更に1925年に白羊社の奥出三郎に継承されるが、奥出は札幌署特高による家宅捜索の対象となったりして、白羊社は1927年末に幕を閉じた。

 経営する者も、また店の名前も変わったが、足助の貸本屋(古本屋)は1927年末頃まで20年以上にわたって、札幌の街に存続したのであった。足助もまた、1930年、病により歿する。足助については歿後、秋田雨雀ほか編『足助素一集』(叢文閣、1931)が出され、その中には、独立社の蔵書目録が掲載されていて興味深い(本書にも再掲されている)。

 最後に、足助の独立社に出入りした吉崎研亮の歌集『民衆の太陽』(1918)には収録された歌を紹介する。

  有島さんがかきしと云ふ

  わが独立社の剥げし画看板

この歌にも足助の独立社と有島のつながりが示されている。また、有島は自らの蔵書を、この独立社の系譜の貸本屋に提供してもいる。

 なお、本書38頁に、有島とも足助とも深い関係の吹田順助(1881-1963)の自伝『旅人の夜の歌』に、一同が関わった「社会主義研究会」の写真が掲載されていた。ちなみに、この写真の背景の「東北帝国大学農科大学附属図書館」は、後年「北海道帝国大学附属図書館」時代に札幌出身の作家である島木健作が務めたところであり、竹中が相談役を務めている北海道大学出版会の事務局につながる施設である。

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タコ部屋の飯を食った作家佐左木俊郎(つづき)

【タコ部屋の飯を食った作家佐左木俊郎(つづき)】

 文芸誌『新潮』の編集に携わった楢崎勤1901−78)に『作家の舞台裏:一編集者のみた昭和文壇史』(読売新聞社1970)がある。そこに、小林多喜二の作品『蟹工船』『不在地主』についての佐左木俊郎の評価が記録されている。

 そして、《佐左木は、ある時期、土工となって「監獄部屋」同然の飯場生活をつぶさに体験している》と楢崎は書いている。楢崎は新潮社で佐左木と同僚。ということは、監獄部屋=タコ部屋同然の飯場生活を体験したというのは、佐左木からの直話と解してもいいだろう。

 ではいつ、どこでなのか? 前回にあげた和田芳恵の『ひとつの文壇史』では「北海道のたこ部屋」と明記してある。佐左木俊郎は1915-16年、十勝に滞在しているが、その時は池田機関庫に勤め、浦幌、池田、新得にいた。可能性としてあるのは、渡道して池田機関庫に勤める前。15歳の時である。

 もうひとつの可能性とは、新潮社に職を得る前、関東大震災によって失職した時、東京で土工として働いていたことがある。ただ、この時は同棲していてタコ部屋に入っていたとは思えない。

 さて、どう考えるべきか?

 

 以下、楢崎著248ページより引用:

ここで文芸批評家のほとんどが採りあげていない佐左木俊郎の「蟹工船」、「不在地主」評を紹介しよう。

「彼の作品には何れにも、他人から聞いて書いたというような、自分のものになって居ないところが沢山ある。『蟹工船』の中の規約書など、全然、監獄部屋のと同じだし、『不在地主』の中へ出て来る北海道の農村は、非常に現実と違ったところがあり、文学的現実にまで書いていない。(略)北海道の農村なら一番近いところに居るのだから、其方も勉強して貫いたいものだ」

 佐左木は、ある時期、土工となって「監獄部屋」同然の飯場生活をつぶさに体験しているだけに絶対的リアリティといわれる「蟹工船」の虚構の面を指摘、暴露しないわけにはおれなかったのであろうし、また、北海道の農村地帯で数年間の生活を経験しているだけに「不在地主」の舞台の北海道の農村が、「現実」と非常に異っている点を指摘したのである。

 なお、小林多喜二とは、二三度、手紙のやりとりをした。そのころ小林は、北海道拓殖銀行小樽支店に勤務していた。手紙は、その銀行の便箋をつかっていた。》

 

タコ部屋の飯を食った作家佐左木俊郎

【タコ部屋の飯を食った作家佐左木俊郎】

「見そこなうな。おれは、北海道でたこ部屋の飯をくった男だぞ」 ーーこう凄んだのは、わたしの遠縁の新潮社編集者兼作家の佐左木俊郎(1900-33)である。同じく新潮社に勤めていた和田芳恵の『ひとつの文壇史』講談社学芸文庫に出てくる。

 1930年前後、佐左木が文学雑誌『文学時代』の編集を担当していた頃。北海道のタコ部屋が世間を騒がしていた最中であり、佐左木俊の凄みは、顔付きと相まって、相手を圧倒したに違いない。(しかし、佐左木は、10代に北海道にはいたが、タコ部屋飯を食ったことがあったのだろうか?)

以下、和田芳恵からの引用:

《「文学時代」の末期に、東京の盛り場をあつかって、町の顔役に社へあばれこまれたことがあった。編集実務を担当していた佐左木俊郎さんが応対したが、応接用の丸いテーブルにあいくちを突きたてて、相手はさかんにすごんでいた。農民作家の佐左木さんには、このおどしが通じないので、うやむやのうちに引きあげるより仕方なかった。  佐左木さんは、そのとき、 「見そこなうな。おれは、北海道でたこ部屋の飯をくった男だぞ」 と、相手に啖呵をあびせたまま、にらみすえて、あとはひと言もいわなかった。》

 

 

 

更科源蔵『凍原の歌』の〈戦争詩〉をめぐって

 沼田流人『監獄部屋』の1928年発禁〜29年改訂版発行について、当時の内務省検閲官を務めた詩人の佐伯郁郎についてSNSで発信したところ、北海道立文学館の理事・青柳文吉さんから論考「更科源蔵『凍原の歌』の〈戦争詩〉をめぐって」を送っていただいた。これは、2007年に北海道立文学館で開催された「更科源蔵生誕100年 北の原野の物語」の図録に収録された論考である。更科源蔵(1904-85)は北海道弟子屈生れの詩人・アイヌ文化研究家として著名な人である。

 その更科の『詩集 凍原』は戦局が日に非となる1943年10月にフタバ書房成光館から刊行されたものである。この詩集の出版経緯について、更科源蔵『札幌放浪記』では、佐伯郁郎の力によって原稿を送ったと書き、佐伯の勧めにより時局ものの戦争詩を入れたと書いている。時局ものの出版は紙の特別配給を受けられたという。

 青柳さんの考察によれば、内務省の役人で検閲官を務めた詩人佐伯郁郎は、1936年に更科源蔵のいる弟子屈に行って対面したという。そして、1941年早々に更科は新たな詩集出版を佐伯に打診し、佐伯はまず出版社の興風館に仲介した。同館の編集者村上信彦(戦後に『明治女性史』などを著す)は、詩集の構成案において、性格の異なる「戦争詩」を外すことを提案した。これに佐伯も更科も同意するが、興風館によるこの企画は(時局向きの出版ではないためか)印刷用紙の配給が受けられず、この興風館からの出版企画は1941年暮れに立ち消えとなった。

 ついで、同詩集企画の出版がフタバ書店に決まったのが1943年1月。一年ほどのブランクがある。この企画の出版承認が下ったのは5月、2000部。この間、詩集は、更科が興風館に提示した際の時よりも「戦争詩」を増やす構成に変更された。つまり時局の色彩を一層強めたのである。

 青柳さんによる、編集者の朱筆が入った完成稿についての調査によれば、この完成稿の表紙には「査定資料」と墨書されており、「実質的な検閲である出版申請書類として当局に提出したと思われる」とのことである。この当局とは内務省警保局図書課を指すのであれば、印刷された書籍段階で検閲を受けるのではなく、事前の原稿段階で査定を受けていたことになるのだろうか。

 青柳さんの考察で面白いのは、この「査定」ののちに、更科は、既に出ていた校正刷に、更なる「戦争詩」の原稿を追加したことである。このことから、詩集に「戦争詩」を入れたのは、佐伯郁郎の指嗾によるというよりも、更科自身の意図だったと推察される。青柳さんの言うように、戦時下において出版に踏み切るには、戦争詩篇を入れることは「更科が、詩人として〈当然〉の営為であると考えていたことは恐らく事実であった」。

 とても刺激的な考察である。