篠田謙一『DNAで語る日本人起源論』(岩波書店2015)及び篠田謙一監修『図解版 人類の起源』(中央公論新書2024)を読む

篠田謙一『DNAで語る日本人起源論』(岩波書店2015)及び篠田謙一監修『図解版 人類の起源』(中央公論新書2024)読了。ともかくゲノムサイエンスの発展によるホモ・サピエンスの「大いなる旅」の解明には驚くばかりである。

わたしが自然人類学による日本人の起源の解明に関心をもったのは、40年以上前、当時は東大理学部教授であった埴原和郎教授の英文の著作(アイヌとオーストラリア・アボリジニとの比較)の本作りを手伝ったことを契機としている。埴原先生の研究が面白かったので、日本における自然人類学の成果を伝える出版企画をたてた。わたしの未熟ゆえにその出版は実を結ぶことがなかったが、埴原先生の研究はその後も追い続け、その日本人の起源についての「二重構造モデル」(旧石器時代に東南アジアなどから日本列島に進出した集団が縄文人となり、新石器時代の北東アジア人が渡来系弥生人となって列島にやってきた)に素人ながら大いに感心したものである。

篠田の著作においては、この「二重構造モデル」は、プラス面が評価されながらもゲノム分析の結果により否定されている。では、日本人の起源は? 渡来系弥生人が縄文的要素を持っていたこと、古墳時代になっても渡来人が流入したことなど、ゲノム分析によって明らかにされている。縄文人と言っても均一の集団ではないこと、そしてまた琉球列島集団の成立、北海道集団の起源、アイヌ集団が三つの地域性を持っていること、などなど、が示され、とても興味深いことが両著において展開されている。

これらの指摘により、現代日本人の成り立ちにおいても、現在が終着点ではなく、歴史の1ページに過ぎないものであることが強調される。「日本人とは何か」「日本とは何か」が、超地域的に、また、超時間的に問うことはできないのである。

ホモ・サピエンスのさまざまな地域集団はゲノム的には連続しているものであり、人種という区分は恣意的なものである。グローバリゼーションの進化と深化により、人類の遺伝的な構成は、地域集団の違いを超えて、今後、均一化の方向に向かうと著者は見る。

著者の研究成果も、研究の途上にあり、今後塗り替えられていくものであることを著者自身、自覚的である。今後の研究の進展が期待されるとともに、あわせて、文化というもの、社会というもの、そもそも人というもの、についてわたしたちがどう考えるか、大きく問われていくであろう。

篠田謙一『江戸の骨は語る 甦った宣教師シドッチのDNA』(岩波書店2018)を読む

篠田謙一『江戸の骨は語る 甦った宣教師シドッチのDNA』(岩波書店2018)読了。

 吉野作造には論文集『主張と閑談 新井白石とヨワン・シローテ』(文化生活研究会1924)という本がある。この「ヨワン・シローテ」とは1708年、禁教下の日本は屋久島に潜入して捕らわれたイタリア人宣教師ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッチ(1668-1714)である。江戸において新井白石が尋問し、『西洋紀聞』『采覧異言』を著したことによっても知られる人物である。新井白石の『西洋紀聞』は、明治になって箕作秋坪大槻文彦が校定して1882年、白石社から刊行している。ちなみに、『言海』で有名な大槻文彦は吉野が仙台中学校に在学していた時の校長を務めていた。

 わたしも20年ほど前に、文京区茗荷谷駅から拓殖大学に行った時、シドッチが捕らわれ尋問を受けたという「切支丹屋敷跡」を訪ねたことがある。坂道を下って行った記憶がある。

 そのシドッチの骨が発見されたという報道(2016年)に接して驚いた記憶がある。その後、本書が刊行されたことを知ったが、このたびようやく読むことができた。シドッチの宣教師としての役割などについては別に新しい知見が示されているわけではないが、屋敷から発掘された三体の人骨を鑑定してその一体がシドッチであると同定していくプロセスは、とてもスリリングで、驚くべきものであった。具体的にはぜひ本書にあたっていただきたい。

 発掘報告書は別に刊行されているが、本書は、鑑定の中心を担った国立科学博物館の著者があとがきで述べるようにインサイド・ストーリーとして描かれている。それには理由がある。それは、科学者が何を考えどのように研究を進めたかについて読者と共有することである。そのため、科学研究の実際(人骨の形態学的研究、DNA分析、核ゲノム解析)とその日進月歩を伝えるとともに、研究をめぐる資金的・人的課題、また行政主体(本書の場合、文京区教育委員会)との関わりと制約についても明記して、科学の置かれている現状を読者に知ってもらうことを著者は意図した。

 対象が人骨であること、著名なシドッチである可能性があること、などもあって行政側も慎重にならざるを得なかった(区教育委員会には手に余る課題だったかもしれない)だろうが、著者らの鑑定結果が出ても、報告書完成までは、研究していることも秘すること、学会発表も控えることなど厳しい条件が付けられた。それは、発掘が、教育委員会から外部委託された民間組織によって行われ(下請け)、骨の鑑定を依頼された国立科学博物館チームはその更なる委託(孫請け)と位置付けられたのではないか、と著者は見ている。財政的問題と絡む構造的な問題なのである。

 公表にあたっては、国立科学博物館が主体となって、シドッチの復顔を作成して展示会を行い、大いに好評を博したという。

 今日の科学研究の先端を示すとともに、その危機の様相を示したものとして、本書は高く評価するに値する。

青野季吉『文学五十年』(筑摩書房1957)を読む

青野季吉『文学五十年』(筑摩書房1957)読了。青野は1920年代、文芸戦線系のプロレタリア文学批評家として活躍した人物であるが、本書はそれにとどまらない自らの半生の文学的回想記である。

1890-1961.  佐渡の没落地主の家に生まれ、佐渡中学校、高田師範卒。小学校教師となる。この辺境の佐渡に生まれ育ったことが同郷の若き北一輝への共感とともに青野の文学的感性の基底をなしている。

本書は、その佐渡での10代半ばでの二葉亭四迷訳『浮草』(ツルゲーネフの『ルーヂン』)との出会いから始まる。国木田独歩徳冨蘆花を経て、島崎藤村『破戒』や田山花袋『蒲団』『田舎教師』など自然主義文学にひかれ、大正期の早稲田大学学生、読売新聞記者時代の文学との関わりを描く。さらに社会主義に近づき、第一次日本共産党入党、『種蒔く人』同人、『文芸戦線』同人、共産党から離れ『労農』同人、1935年の『文学界』同人、治安維持法違反による有罪、戦時の秋田疎開、戦後のペンクラブ再興との関わりなど、昭和30年頃までの文学生活を回想する。

数多くの文学作品と文学者だけでなく、左翼運動関係者も登場して興味深いし、文学運動・社会運動内部の問題点を示唆しているのも特徴である。

また、青野がサヴィンコフ『蒼ざめたる馬』を翻訳して直木三十五の冬夏社から翻訳出版した経緯、その自死の前に有島武郎が観音経写経を堺利彦長谷川如是閑に与えたことも記載され、さらに、『夜明け前』完結後に島崎藤村を訪ねた際に「藤村の造作の大きい顔に、わたしはちらと無気味なものを感じた」こと、など人間観察を踏まえた具体的エピソードに事欠かない。

もとが新聞連載であったため、ひとつひとつが深掘りされていない恨みがあるが、しかし、文芸批評家として自らの体験に基づき、20世紀前半世紀の文学と文学運動の大きな流れを、対象に距離をとりつつ自己反省と共に綴ったものとして貴重な作品である。毎日出版文化賞受賞。

 

 

山田宗睦氏会見記:『近代日本の思想家』全11巻完結を迎えて

山田宗睦氏の訃報に接した。6月17日逝去。享年99.氏は1950年代東大出版会の編集者として活躍した。

ここに山田宗睦氏会見記(20070703)がある。山田氏が企画をたてた『近代日本の思想家』全11巻(1958-2008)の完結を前にしてインタビューをしたものである。氏の了解も得て、某誌に掲載する予定で準備したのだが、掲載されなかった。
補足が必要だが、いまは、当時のままの文章を載せることで、氏を偲ぶことにする。

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山田宗睦氏会見記 

070703 辻堂駅前Denny’s にて

○:山田氏  ●:竹中英俊

 

〇 松本三之介さんの『吉野作造』の原稿ができて「近代日本の思想家」のシリーズが完結するという手紙をいただいて、とても嬉しかったですね。1994年に『北村透谷』が出来たときは、色川(大吉)さんから電話をいただいて、そのときも嬉しかったが、残った松本さんの『吉野』は無理だろうなと思っていたので、それが出来て完結するというのだから、本当に感激しました。

 そして、東大出版会がこの企画をずーと追いかけていてくれていたことも、本当に嬉しいし、ありがたいと思っています。

● 手紙にも書きましたが、刊行開始からちょうど50年を閲して完結するわけですから、これは大変なことです。

『北村透谷』のあとがきを拝見すると、山田さんが色川先生に執筆依頼をされたのは1956年2月に『文学』に発表した連名論文「北村透谷の歴史的把握」をきっかけとしてであったと書かれていますが、そうしますとこのシリーズ自体を構想し執筆依頼されたのはいつごろなのかお聞きしたいと思います。その前に、山田さんが東大出版会に入社されたのは創立2年目の1952年で、退職されたのは1959年ですね。

 

○ 私が東大出版会に入ったのは1952年の8月です。京大哲学科をおえて鹿児島県の定時制高校の教師をしていました。京大西洋史の出身で筑摩書房にいた石井立さん(石井和夫氏のお兄さん)から、弟がいる東大出版会で編集者を探しているけれど、やってみる気があるなら紹介すると言われました。立さんとは専門は違いますが、戦時中の勤労動員でモッコを、お互いが前になり後ろになりしてかついだ仲です。立さんの縁があって、中途半端な時期ですが8月に入ったのです。その年の4月の通常に入社した人に、後に博報堂に移った渡辺孝夫さんがいました。私が入ったときに編集を担当していたのは、石井さん、渡辺さん、鴨沢(久代)さん、成田(良輔)さんの4人でした。箕輪(成男)さんは病気療養でほとんど会っていません。中平(千三郎)さんが全体を取り仕切っていて、造本などは中平さんの了解が必要でした。

最初は、石井さんの指示で著者にゲラを届けたりしていました。丸山(真男)さんの『日本政治思想史研究』は私が入った1952年の12月に出来ていますが、石井さんに言われて吉祥寺東町のご自宅にゲラを届けたりしました。うかがうと3時間くらい話をしていただいたものです。頭の良さにただただ感心するばかりでした。最初は独創的な論理を構築する話をする、次は構築した論理の欠陥を指摘する話をする。そのような話し方で、いつも圧倒されていました。吉祥寺には、丸山さんのほかに竹内好さん、中野好夫さんが住んでいて、その3軒ぐるぐる回ったものですよ。

丸山さんは本が出来た時に、二食(生協第2食堂)の3階にあった東大出版会の事務室にいらっしゃって職員のためにサインをしてくれました。これがそれです。あなたが昨年に尋ねたように、最初は箱入りではなくカバーの装丁です。その後に箱入りになったのですね。その理由はわからないな。この本は私の所においていてもいずれ雲散するでしょうから、さしあげます。

私が著者に最初に頼んで作った本は、ここに持ってきた本、北山茂夫著『万葉の世紀』です。これも記念にさしあげましょう。保存してください。

● これがそうですか。最初はカバー装だったのですね。私の記憶にあるのは箱入りですし、1975年刊行の『続 万葉の世紀』も箱入りでした。

この『万葉の世紀』の刊行が奥付では1953年5月1日で、「はじめに」によりますと、52年の秋に東大出版会から出版の交渉を受けたとありますから、山田さんは入社されたそのすぐ後に企画を立てられ、1年も経たずにご自分の独自企画を具体的な成果として出版されたのですね。

○ 当初は石井さんがこまめに著者のところに足を運んで企画をたてていました。日中はほとんど事務所にいなかったのではないかな。そして、その企画をほかの人に回す形だったのですが、だんだんと自分で企画を立てるようになったのです。

 私は、できるだけ若手に書いてもらいたいと思っていました。登竜門にしたい。そのためにどうしたかと言うと、中堅の人を監修者・編者にして講座やシリーズの企画をたてて、そこに若手に書いてもらう、そういうことを意図しました。

遠山茂樹さんがいろいろとアドバイスをしてくれました。遠山さんには、著者に直接声をかけていただいたものです。たとえば、家永(三郎)さんの『日本近代思想史研究』(1953.12)がそうです。ある日、家永さんが事務所に原稿を持って来て、たまたまいた私が応対しました。家永さんほどの人が原稿の売り込みに自分で動いているのだなあ、とその時思ったのです。が、あとでわかったことですが、遠山さんが家永さんに「東大出版会が出版する原稿を探しているので、いいものがあったら、よろしくお願いしたい」と声をかけていたそうです。

● そうですか。そういう経緯であのロングセラーが東大出版会から出ることになったのですか。初めて知りました。家永先生とつなぐという意味でも遠山先生の貢献は大きいですね。

○ 家永さんには、1959年に東大出版会を辞めて浪人していたときに、思想と歴史に関心あるだろうということで、仕事を手伝ってほしいと頼まれて、東京教育大学で家永さんのもとで働くことになりました。そのことが経歴として評価されたこともあって桃山学院大学に就職することができたのです。その東京教育大学では松本さんがいらして、『吉野』の原稿催促はしなかったと思うけど、60年安保の時は一緒に行動しました。

● 山田さんは東大出版会に在籍中に、ご自分の本を他社で出していますよね。

○ 確か一冊出していますね。当時の東大出版会は、月に1冊、年に12冊出しておけば、あとは自由でした。企画から原稿とり、校正から装丁まで、全部自分でできて、手作りでしたから楽しかったですよ。手当もつかず経済的にはきびしかったけど、毎月1冊程度ですから、のんびりしていたなあ。自分が出したいものを自分で作るのですから、忙しいと思ったことはないなあ。

● 確かにそうでしょうね。今は、校正は外校正者に頼んでいますが、毎月1冊というのはほとんど難しいでしょうね。編集者と著者との関係や、仕事に対する意識が大きく変化しているのでしょうね。

 

● ところで「近代日本の思想家」のシリーズはどういう経緯で企画されたのですか。

○ 先ほど申し上げましたように、講座やシリーズを若手の登竜門として企画を立てたいと思いました。駒場の哲学に山崎正一先生がいました。その周辺に若手で宮川透や生松敬三がいて「思想史研究会」を作っていました。中村雄二郎さんもいたな。中村さんは後に『パスカルとその時代』を出しましたね(1965.11)。その研究会に私も入っていました。そこで本を作ろうと思ったのですが、西洋の思想家を対象としたらそんなに難しくなくできるけど、紹介が中心となってしまうので面白くない、むしろ日本の思想家についてやろうと思ったのです。

● 取り上げる思想家と執筆者のことで苦労したことがあれば、お聞かせ願いたいのですが。

○ なんかワアワアやっているうちに大体が決まったという感じですね。みんながワアワアやっているあいだにね。片山潜について隅谷先生にお願いしようというのは宮川さんの案です。断られるのではないかと思ったのですが、中平さんを通して頼んだら、快く引き受けてくれました。生松さんは鷗外をぜひやりたいということでしたし、西田幾多郎は京大の先輩の竹内さんに頼みました。戸坂潤についても平林は思想史研究会のメンバーでしたから。

 色川さんは日本史年表をつくっていた服部之総の手伝いをしていて、私も手伝っていましたので、色川さんを知っていました。それで透谷を頼んだのです。

漱石を誰にするかについては困りました。当時、小宮(豊隆)さんなどの上の世代を別として若い世代で漱石をやっている人を思いつかなかった。

● 江藤淳三田文学に「夏目漱石論」を発表するのは昭和30年代で、少し後でしたね。(実際は、『三田文学』に発表したのは昭和30年、東京ライフ社から刊行したのが31年。)

○ 困って、瀬沼茂樹さんにいい人がいないか推薦してもらおうと思って相談に行ったんです。そうしたら、ご自分が書くとおっしゃる。

● 時にあるケースですね。

○ 瀬沼さんご自身が書いてくれるならそれに越したことはない。それで大体が決まったのです。

● どうして全11巻なのですか。イレブンという意味付けも出来ますが、中途半端な数字に思いますが。

○ そう。全12巻にしたかったのです。12というのはいい数字ですよね。一回りするというか。そこで山崎正一先生に書いてもらいたいと思ってお願いしたのですが「いまさら日本の思想家をやれない」と言われ、あきらめたのです。

● この11巻構成をみていますと、50年たっても納得できるもので素晴らしいと思うのですが、ぜひ取り上げたいと思って執筆者がいなくて取り上げられなかったというのはなかったのですか。

○ それは津田左右吉です。

● ああ、なるほど。

○ 津田をぜひ取り上げたかったのです。執筆者としてはちょうど日本史研究会・歴史学研究会共同編集の『日本歴史講座』の第8巻(1957.5刊行)で津田歴史学について上田正昭が書いていてその上田を考えましたが、まだちょっと。ここは井上光貞先生にお願いできないかと思ったのですが、当時、『歴史と民族の発見』『続』で石母田正先生がそびえるようにしていて、その分、井上先生とは距離をとっていたのです。

● 執筆時期は覚えていませんが、井上先生は津田について結構書かれていますよね。お願いすれば、引き受けてくれる可能性は十分にあったのではないですか。

○ 当時、私は(東大文学部)日本史研究室の青木和夫さんとは付き合っていましたが、井上先生とは直接のコンタクトをとっていなかったのです。それで青木さんに相談したのですが、「井上先生は今は無理だ」と言われて、それであきらめてしまったのです。引き受けてくれたかどうかはわからないけど、直接コンタクトをとることなく終わってしまったのは、惜しいことをしたな、と思っています。

● そうですね。もし、このシリーズに井上先生の『津田左右吉』が入っていたら、と思うとワクワクしますね。このシリーズの意義、戦後歴史学のあり方が異なっていただけでなく、歴史と現代の見方などが今とは違っていたかもしれませんね。

 シリーズはほかにはどのようなものを手がけられたのですか。『日本歴史講座』と「近代日本の思想家」は併行して進んでいたのですね。

〇 『日本歴史講座』(全8巻、1956.6開始)は、遠山さんから、東の歴史学研究会と西の日本史研究会が共同で歴史の講座を作ったらいいぞ、と言われたのです。それで西は門脇禎二さんが中心になってくれました。先日なくなられましたね(6月12日)。その後、両研究会による講座を東大出版会が続けていることに感謝しています。

● 第4次講座まで続いております。門脇先生は主著といわれる『日本古代共同体の研究』を東大出版会から出されていますね(1960.7)。

〇 1959年に私が退職してからの出版だったと思います。

 『日本歴史講座』は新書の箱入りで、それ以前に同じ装丁で作ったのが『日本文学講座』です(全7巻、1954.11開始)。これは東大出版会では初めてのシリーズ物だったのではないかな。西郷信綱さんが中心となってくれました。西郷さんには『万葉私記1、2』を出してもらっています(1958.5、59.7)。

 それから判型はB6版で箱入りの『日本美術史叢書』も作りました(全7巻、1956.11開始)。この母体となった文化史懇談会には辻惟夫さんも参加していました。『日本美術の歴史』はいいですね。通常は何人かで分担して書くのですが、通史を辻さんがお一人で書かれたのはすごいですね。懇談会の当時は、辻さんは末席にいるという感じでした。

● そうですか。辻先生もご参加されていたのですか。東大出版会の企画としては『日本美術の歴史』は『日本美術史叢書』の延長線上に位置づけることもできるのですね。叢書の刊行開始が1956年、『日本美術の歴史』の刊行が2005年。ここにも半世紀をつなぐ糸があったのですね。

〇 そうですね。叢書の装丁の文字を宮川寅雄さんが書きましてね、それが会津(八一)ばりなのですよ。ちょっと・・・

● 宮川寅雄さんは書もなされたのですか。

この叢書の中の吉沢忠著『渡辺崋山』などは、今年の3月に刊行されたドナルド・キーンの『渡辺崋山』でも註で取り上げられていて、50年後の今でも意味のある本なのだなと思いました。

 お話をうかがっていて、山田さんら先輩達が敷いたレールの延長線上で今われわれが出版活動をしていることを改めて強く感じました。

「近代日本の思想家」シリーズ刊行開始50年になる2008年の1月に『吉野作造』の刊行をいたします。1958年はちょうど東京タワーができた年ですし、ダイエーができた年です。2008年は新東京タワーが着工される年です。シリーズを企画し執筆依頼された1956年は、経済白書に「もはや戦後ではない」と書かれた年で、日本の国連加盟が承認された年です。

〇 そうですか、東京タワーですか。象徴的ですね。ちょうどその前後は、戦災から完全に立ち直り、新しく羽ばたこうとしていた時期なのでしょうね。今から思うと、そういう時代を背景として、新しい挑戦をしたいと考えたいろいろな企画のひとつが「近代日本の思想家」だったのかもしれません。

● 新刊の『吉野』に先んじて、「近代日本の思想家」既刊10冊の新装版の刊行をこの9月にする予定です。普及のためにも、エッセーのご執筆などいろいろとお願いしたいと思いますし、また、内容見本に載せる「推薦のことば」をどなたか大家にお願いする際にはお口添えなどご協力をお願います。

 完結を記念してお祝いをしようか、と言っているのですが、著者がどなたがご出席できるか・・・

〇 古田光さんはこの3月に亡くなられましたから、11人の著者のうちご存命は、遠山、色川、松本となるでしょうね。

● このシリーズにかかわった編集者は、「あとがき」で触れられている名前で数えると、山田さんも含めて7人になりますが、そのうち中平さん、斎藤(至弘)さんは亡くなられました。 

50年前に蒔かれた種が、このように多くの人を動かし、出会いを生み出していることに大きな感慨を抱きます。この新装版の刊行と『吉野作造』の新刊刊行とが、新たに人を動かし、出会いの場を創造することを期待しています。今日はどうもありがとうございました。

 (了)

 

【本庄陸男『石狩川』の舞台化と映画化】

【本庄陸男『石狩川』の舞台化と映画化】

20220801

 


はじめに

 1939年に大観堂書店から刊行された本庄陸男の『石狩川』は、高い評価を受けベストセラーとなり、直ちに舞台化と映画化が計画された。刊行された『石狩川』は第一部であり、続編が意図されていたが、著者が刊行後2か月ほどの7月13日に結核のため死去し、その意図が果たされることはなかった。しかし、第一部だけでもまとまった作品として読むものに感銘を与える。

 本庄『石狩川』を原作とした演劇化と映画化は、戦前だけにおいても、わたしの確認した範囲であるが、3件試みられた。

①新協劇団による舞台化 村山知義演出・脚本 1939年12月

東宝熊谷久虎監督による映画化 1940年初めの計画のみ

③日活の内田吐夢監督による映画化 1940年初めの計画のみ

 このほかに戦後になって、①に基づいた再演がなされると共に、次のようなものがある。

東映佐伯清監督による映画化 『大地の侍』1956年公開

NHKによるテレビドラマ化 総合テレビのこども劇場 1964年2月2日

 


久保栄日記・書簡

 以上の舞台化・映画化そしてテレビドラマ化のうち、①②③については、『久保栄全集』全12巻(三一書房、1961-63) で、その一端を知ることができる。特に、第11巻「日記」、第12巻「書簡ほか」、また第3巻「創作」に収録された「シナリオ 石狩川」が注目される。

 久保栄の日記には、1939年10月1日から、新協劇団で上演する『石狩川』についてのことが出てくる。当初は、久保栄演出、村山知義脚色であったが、結局、久保が降り、村山の演出・脚色なり、同年12月に上演された。その経緯と久保栄の思いが書かれている。

 (なお、松本克平宛て19391002の封緘はがきにおいて、『石狩川』についての危惧が書かれている。脚本を村山に任せるべきかどうか。)

 日記によれば、その後1940年1月初め、東宝熊谷久虎監督で映画を撮る話しがあり、そのシナリオ書きが久保のもとに依頼があり、これに積極的となった。2月11日、シナリオ覚書を書き続ける。一方、1月下旬、新協劇団に、日活の内田吐夢が『石狩川』を撮りたがっていて協力を求めることが伝えられたが、久保は熊谷が先行していることを劇団に話した。以降については、日記でも書簡でも確認できない。

 他方、全集には「シナリオ 石狩川」が収録されている。これは、時系列にそったシナリオである。つまり、禄高没収後の岩出山伊達家の身の振り方を探る有備館での様子から始まり、室蘭に上陸し、石狩シップに着き、そこが不適切な土地であることに気付き、トウベツを目指す直前まで描いたものである。緊張したセリフに力があり、引き込むものがあるが、いかんせん、まだ序章で終わっている。

 シナリオを書き続けることができなかったのは、1940年の官憲により新協劇団事件が絡んでいる。

 


新協劇団

 新協劇団は1934年に、村山知義が主導して作られたもので、同年、旗揚げ公演として、『夜明け前・第一部』が、久保栄演出・村山知義脚本で上演され、好評を得た。『夜明け前』島崎藤村の長編歴史小説であり、日本の近代小説の代表作である。第一部が1932年1月刊行、第二部が1935年11月刊行である。

 この新協劇団の『夜明け前・第一部』については、久保と村山のあいだで確執があったようである。久保は村山の脚本の不備を演出で補うことに不満を漏らしている。  (ちなみに、わたしは、村山の脚本を新潮文庫で読んだが、原作の感動は、脚本からは与えられなかった記憶がある。)

 新協劇団は旗揚げ5周年記念として『石狩川』を取り上げることになった。亀井勝一郎によって島崎『夜明け前』に比肩された本庄『石狩川』を5周年記念で取り上げるのは新協劇団としてふさわしいと思う。

 新協劇団では久保演出・村山脚本で進めることにした。しかし、久保が原作自体について問題を抱いていた。一つは、当時の日本の国策である満洲開拓につながる恐れがあることである。また、主人公の吾妻について作者があまりに肯定的であることである。後者については、公演決定後に久保が本庄夫人に挨拶した際に、夫人から、本庄は自分の父を重ねて吾妻を描いたことを聞いて、その印象をいっそう強めた。

 村山の脚本作成が遅れたこともあり、久保は、自分一人で演出と脚本を手掛けるか、村山一人で演出と脚本を担うか、そのような思いを強め、公演日程もあって、劇団としては後者に、つまり久保が降りることに決定した。

(大観堂書店の『石狩川』のオビには「久保栄演出・村上知義脚本」と書かれたオビの付いた重版がある。)

 これで久保が『石狩川』と縁を切ったわけではない。既述のように、映画化のシナリオ書きに取り組み、実際にシナリオが残っていることからも、久保の『石狩川』への熱意が伝わってくる。

 


付記

 久保栄と本庄陸男『石狩川』とについては、小笠原克『久保栄』(新宿書房2004)で取り上げられている。

 『大地の侍』のシナリオは、北海道立文学館に保存されている。これをよんでみたが、当たり前のことだが、久保栄が書いたシナリオとは全く別のものである。

中本たか子の二つの作品 「跛の小蠅」及び「白衣作業」

中本たか子「跛の小蝿」(『改造』1954年3月)を読む。今は誰も読む人がいないのではないだろうか。中本たか子の経験をもとにした作品とするならば、ここに出てくる夫=共産党幹部は、くらはらこれひとをモデルにしていると思われる。
この作品は、日本共産党が分裂し、朝鮮戦争が勃発した1950年の、共産党幹部の家庭を子供の視点を軸にして描いた佳作。である。2人の刑事が夫や家族を四六時中見張って、潜行した最高幹部の行方を追っている。小学低学年の行夫の同級生の定夫は、刑事に取り込まれ、毎日遊びに来るが、それは警察に使嗾された偵察の意味合いを持ち、行夫と一緒に遊ぶわけではない。
父はふさぎ、その鬱積を母にあたる。母の鬱積も行夫に向く。鬱屈した思いを抱える行夫。
夏休みのある日、行夫は跛の小蝿を見出す。母にその小蝿を殺さないように頼むが、母はまともに受け止めない。癇癪を起こす行夫。息子の思いに気づきハッとする母。
戦前戦中に弾圧を受けて夫婦が戦後もまた圧迫を受け屈折する姿を子供の視点から描いている点が、この小説を読ませるものにしている。

 

中本たか子の小説集『白衣作業』(六藝社1938)収録の「白衣作業」を読了。初出は「白衣作業」『文藝』1937年9月号。舞台は岡山県の三次刑務所。女囚を収容している。主人公は7番と呼ばれる治安維持法違反で逮捕され転向した囚人。著者がモデルと思われる。7番は、軍から発注された白衣の製造について、雑役という立場で、生産工程の潤滑油的役割を務める。「民衆との連帯」を目的として反体制非合法活動に携わって逮捕された主人公は、刑務所作業場において、囚人という民衆と連帯すべく、与えられたノルマの完遂に最大限努める。登場するたくさんの女囚、そしてまた監察員(それも女性である)の描き方は冴えている。

しかし、この7番には、非合法活動をしていた時と同様に、自らを無知な大衆を指導しようとするリーダー意識が感じられるが、著者にはそのことは自覚されていない。

この作品は、転向した島木健作の『生活の探求』とともに体制の方向に同調する「生産文学」と批判されるが、確かにそういう面があることは否定できない。しかし、登場人物の生き生きとした人間像を描き出したことは、少しは評価してもいいのではないか、と思った。

松山善三『厚田村』ーー佐藤松太郎、戸田城聖、子母澤寛

松山善三厚田村』】

茅ヶ崎駅前に「美彩美酒 厚田村」という店がある。ここには松山善三厚田村』上下(潮出版社1978)が置いてある。装幀が高峰秀子で、題字が梅原龍三郎。この題字は店の看板の文字と同じ文字である。ご主人の祖父の墓は厚田村にあるという。

6月25〜26日、茅ヶ崎岡崎文吉研究会ツアーの一環として石狩市厚田区を石狩の安田秀司さんの案内で回った。地層・地形と歴史・四季と生物・人間との織り成す様々な時空間に直に触れることができて、大いなる刺激を受け、たくさんの学びを得た。

ツアーの中で、安田さんから「松山善三の『厚田村』は面白いですよ」と言われ、札幌から7/4日0時過ぎに帰宅後、6日と7日の両日をかけて上下巻を読み通した。明治に生まれた厚田の漁師の娘セツを主人公として、明治大正昭和という激動の時代を、様々な人との関わりの中で波瀾万丈としか言いようのない人生を送った軌跡を見事に描き出した作品である。

なんと実在の人物が登場する。厚田を拠点としたニシン漁を手始めにコングロマリットを形成した経営者・フィランソロピスト佐藤松太郎、後に創価学会第二代会長となる戸田城聖の若い頃の戸田甚一、『新選組始末記』や厚田三部作を著した子母澤寛の若き頃の梅谷松太郎。いずれも厚田村ゆかりの人物である。

他にも、厚田村樺太アイヌ、小樽で左翼活動をする朝鮮人、小樽を拠点とする荒々しい実業家、芸妓、主人公に使える樺戸監獄脱獄者の幇間、主人公と愛を交わす測量技師、さらに主人公に子熊の時から可愛がられたヒグマなど、それぞれに魅力的な人物と動物が描かれ、まさに自然と人物の織り成す物語が展開される。

石狩市と合併して2024年の厚田区は、この作品が描かれた時代とは様相を異にする。しかしながら、空間的な場と地層は、時間的な一瞬と堆積との交差点において、わたしたちにその相貌をあらわす。松山善三の『厚田村』はフィクションではあるが、磁場としての厚田村に生きた無名の女性の人生のなにごとかを、今日のわたしたちに伝えてくれる。