梅田滋『存在の淋しさ 有島武郎読書ノート』に寄せて

梅田滋『存在の淋しさ 有島武郎読書ノート』に寄せて
 
竹中英俊(北海道大学出版会相談役)
 
 有島武郎は「北海道文学の父」と言われる。確かに「カインの末裔」や「生まれ出る悩み」「星座」などは北海道に深く根差した作品であり、その呼称は正しい。しかし、一方、有島の作品を今日読み直すと、それは「北海道」という場を胎盤として生まれ育ったものでありつつも、それを超えて、作品の場そのものを問い直す、そして人間の存在を問い直すものであることに気付くのではないだろうか。「存在」は、あなたの/わたしの「アイデンティティ」あるいは「居場所」と読み替えてもいい。
 ここに今年5月に刊行された梅田滋『存在の淋しさ 有島武郎読書ノート』(共同文化社)がある。今年2023年は、有島が軽井沢で婦人公論の編集者波多野秋子と心中してちょうど100年となる。しかし本書は、そのようなセンテニアルに向けて企画され出版されたものではない。
 本書は、ニセコの有島記念館と歩む会「土香る会」での10年近くにわたる有島作品の月例読書会に、課題作品に即して提出した著者の31編の読書ノートに、東アジアにおける有島文学の位置についての考察を加えてまとめあげたものである。
「自分の心だけで作品を読んだ」と著者が述べているように、本書は有島の創作・評論・遺書のほぼ全てに眼を通しての内的対話・自己対話の記録である。「自分の精神の在りようを見続ける」著者の一貫した姿勢から紡ぎ出される言葉は、「愛」と「階級」の問題を中心的なテーマとした有島作品の根底と、私たちの存在を脅かすものの根底に垂鉛をおろしているように思える。
 特に、末尾、波多野秋子との情死に至る道行きついて、有島の遺作、秋子の遺文や友人の証言に基づきつつ、あたかも有島が著者に憑依したかのように、つまり、有島が梅田か、梅田が有島か、と見紛うばかりの文章を著者が綴っていることに戦慄する。そして、有島は秋子に『或る女』の主人公葉子を見たのではないかという示唆は、紙背に徹した洞察であろう。
 有島の言葉「存在の淋しさというよりももっと深いもの」――この有島の「アイデンティティの裂け目」は超えられたのか。その課題は、百年前に有島の直面したものと相似形でもって、今のわたしたちに迫る。
 本書は、有島武郎の入門書ではない。しかし、時代の困難に向き合いつつ、一寸先の光も見出せぬ未来をまさぐろうとする「生きることの初心を忘れぬ」人にとって、有島の諸作品と本書『存在の淋しさ』は、数少ない手がかりになることを確言する。


「道はなし世に道は無し心して荒野の土に汝が足を置け」(有島武郎の絶筆短歌十首より)

 

『季刊アイワード』19(2023.10)掲載