山田宗睦氏会見記:『近代日本の思想家』全11巻完結を迎えて

山田宗睦氏の訃報に接した。6月17日逝去。享年99.氏は1950年代東大出版会の編集者として活躍した。

ここに山田宗睦氏会見記(20070703)がある。山田氏が企画をたてた『近代日本の思想家』全11巻(1958-2008)の完結を前にしてインタビューをしたものである。氏の了解も得て、某誌に掲載する予定で準備したのだが、掲載されなかった。
補足が必要だが、いまは、当時のままの文章を載せることで、氏を偲ぶことにする。

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山田宗睦氏会見記 

070703 辻堂駅前Denny’s にて

○:山田氏  ●:竹中英俊

 

〇 松本三之介さんの『吉野作造』の原稿ができて「近代日本の思想家」のシリーズが完結するという手紙をいただいて、とても嬉しかったですね。1994年に『北村透谷』が出来たときは、色川(大吉)さんから電話をいただいて、そのときも嬉しかったが、残った松本さんの『吉野』は無理だろうなと思っていたので、それが出来て完結するというのだから、本当に感激しました。

 そして、東大出版会がこの企画をずーと追いかけていてくれていたことも、本当に嬉しいし、ありがたいと思っています。

● 手紙にも書きましたが、刊行開始からちょうど50年を閲して完結するわけですから、これは大変なことです。

『北村透谷』のあとがきを拝見すると、山田さんが色川先生に執筆依頼をされたのは1956年2月に『文学』に発表した連名論文「北村透谷の歴史的把握」をきっかけとしてであったと書かれていますが、そうしますとこのシリーズ自体を構想し執筆依頼されたのはいつごろなのかお聞きしたいと思います。その前に、山田さんが東大出版会に入社されたのは創立2年目の1952年で、退職されたのは1959年ですね。

 

○ 私が東大出版会に入ったのは1952年の8月です。京大哲学科をおえて鹿児島県の定時制高校の教師をしていました。京大西洋史の出身で筑摩書房にいた石井立さん(石井和夫氏のお兄さん)から、弟がいる東大出版会で編集者を探しているけれど、やってみる気があるなら紹介すると言われました。立さんとは専門は違いますが、戦時中の勤労動員でモッコを、お互いが前になり後ろになりしてかついだ仲です。立さんの縁があって、中途半端な時期ですが8月に入ったのです。その年の4月の通常に入社した人に、後に博報堂に移った渡辺孝夫さんがいました。私が入ったときに編集を担当していたのは、石井さん、渡辺さん、鴨沢(久代)さん、成田(良輔)さんの4人でした。箕輪(成男)さんは病気療養でほとんど会っていません。中平(千三郎)さんが全体を取り仕切っていて、造本などは中平さんの了解が必要でした。

最初は、石井さんの指示で著者にゲラを届けたりしていました。丸山(真男)さんの『日本政治思想史研究』は私が入った1952年の12月に出来ていますが、石井さんに言われて吉祥寺東町のご自宅にゲラを届けたりしました。うかがうと3時間くらい話をしていただいたものです。頭の良さにただただ感心するばかりでした。最初は独創的な論理を構築する話をする、次は構築した論理の欠陥を指摘する話をする。そのような話し方で、いつも圧倒されていました。吉祥寺には、丸山さんのほかに竹内好さん、中野好夫さんが住んでいて、その3軒ぐるぐる回ったものですよ。

丸山さんは本が出来た時に、二食(生協第2食堂)の3階にあった東大出版会の事務室にいらっしゃって職員のためにサインをしてくれました。これがそれです。あなたが昨年に尋ねたように、最初は箱入りではなくカバーの装丁です。その後に箱入りになったのですね。その理由はわからないな。この本は私の所においていてもいずれ雲散するでしょうから、さしあげます。

私が著者に最初に頼んで作った本は、ここに持ってきた本、北山茂夫著『万葉の世紀』です。これも記念にさしあげましょう。保存してください。

● これがそうですか。最初はカバー装だったのですね。私の記憶にあるのは箱入りですし、1975年刊行の『続 万葉の世紀』も箱入りでした。

この『万葉の世紀』の刊行が奥付では1953年5月1日で、「はじめに」によりますと、52年の秋に東大出版会から出版の交渉を受けたとありますから、山田さんは入社されたそのすぐ後に企画を立てられ、1年も経たずにご自分の独自企画を具体的な成果として出版されたのですね。

○ 当初は石井さんがこまめに著者のところに足を運んで企画をたてていました。日中はほとんど事務所にいなかったのではないかな。そして、その企画をほかの人に回す形だったのですが、だんだんと自分で企画を立てるようになったのです。

 私は、できるだけ若手に書いてもらいたいと思っていました。登竜門にしたい。そのためにどうしたかと言うと、中堅の人を監修者・編者にして講座やシリーズの企画をたてて、そこに若手に書いてもらう、そういうことを意図しました。

遠山茂樹さんがいろいろとアドバイスをしてくれました。遠山さんには、著者に直接声をかけていただいたものです。たとえば、家永(三郎)さんの『日本近代思想史研究』(1953.12)がそうです。ある日、家永さんが事務所に原稿を持って来て、たまたまいた私が応対しました。家永さんほどの人が原稿の売り込みに自分で動いているのだなあ、とその時思ったのです。が、あとでわかったことですが、遠山さんが家永さんに「東大出版会が出版する原稿を探しているので、いいものがあったら、よろしくお願いしたい」と声をかけていたそうです。

● そうですか。そういう経緯であのロングセラーが東大出版会から出ることになったのですか。初めて知りました。家永先生とつなぐという意味でも遠山先生の貢献は大きいですね。

○ 家永さんには、1959年に東大出版会を辞めて浪人していたときに、思想と歴史に関心あるだろうということで、仕事を手伝ってほしいと頼まれて、東京教育大学で家永さんのもとで働くことになりました。そのことが経歴として評価されたこともあって桃山学院大学に就職することができたのです。その東京教育大学では松本さんがいらして、『吉野』の原稿催促はしなかったと思うけど、60年安保の時は一緒に行動しました。

● 山田さんは東大出版会に在籍中に、ご自分の本を他社で出していますよね。

○ 確か一冊出していますね。当時の東大出版会は、月に1冊、年に12冊出しておけば、あとは自由でした。企画から原稿とり、校正から装丁まで、全部自分でできて、手作りでしたから楽しかったですよ。手当もつかず経済的にはきびしかったけど、毎月1冊程度ですから、のんびりしていたなあ。自分が出したいものを自分で作るのですから、忙しいと思ったことはないなあ。

● 確かにそうでしょうね。今は、校正は外校正者に頼んでいますが、毎月1冊というのはほとんど難しいでしょうね。編集者と著者との関係や、仕事に対する意識が大きく変化しているのでしょうね。

 

● ところで「近代日本の思想家」のシリーズはどういう経緯で企画されたのですか。

○ 先ほど申し上げましたように、講座やシリーズを若手の登竜門として企画を立てたいと思いました。駒場の哲学に山崎正一先生がいました。その周辺に若手で宮川透や生松敬三がいて「思想史研究会」を作っていました。中村雄二郎さんもいたな。中村さんは後に『パスカルとその時代』を出しましたね(1965.11)。その研究会に私も入っていました。そこで本を作ろうと思ったのですが、西洋の思想家を対象としたらそんなに難しくなくできるけど、紹介が中心となってしまうので面白くない、むしろ日本の思想家についてやろうと思ったのです。

● 取り上げる思想家と執筆者のことで苦労したことがあれば、お聞かせ願いたいのですが。

○ なんかワアワアやっているうちに大体が決まったという感じですね。みんながワアワアやっているあいだにね。片山潜について隅谷先生にお願いしようというのは宮川さんの案です。断られるのではないかと思ったのですが、中平さんを通して頼んだら、快く引き受けてくれました。生松さんは鷗外をぜひやりたいということでしたし、西田幾多郎は京大の先輩の竹内さんに頼みました。戸坂潤についても平林は思想史研究会のメンバーでしたから。

 色川さんは日本史年表をつくっていた服部之総の手伝いをしていて、私も手伝っていましたので、色川さんを知っていました。それで透谷を頼んだのです。

漱石を誰にするかについては困りました。当時、小宮(豊隆)さんなどの上の世代を別として若い世代で漱石をやっている人を思いつかなかった。

● 江藤淳三田文学に「夏目漱石論」を発表するのは昭和30年代で、少し後でしたね。(実際は、『三田文学』に発表したのは昭和30年、東京ライフ社から刊行したのが31年。)

○ 困って、瀬沼茂樹さんにいい人がいないか推薦してもらおうと思って相談に行ったんです。そうしたら、ご自分が書くとおっしゃる。

● 時にあるケースですね。

○ 瀬沼さんご自身が書いてくれるならそれに越したことはない。それで大体が決まったのです。

● どうして全11巻なのですか。イレブンという意味付けも出来ますが、中途半端な数字に思いますが。

○ そう。全12巻にしたかったのです。12というのはいい数字ですよね。一回りするというか。そこで山崎正一先生に書いてもらいたいと思ってお願いしたのですが「いまさら日本の思想家をやれない」と言われ、あきらめたのです。

● この11巻構成をみていますと、50年たっても納得できるもので素晴らしいと思うのですが、ぜひ取り上げたいと思って執筆者がいなくて取り上げられなかったというのはなかったのですか。

○ それは津田左右吉です。

● ああ、なるほど。

○ 津田をぜひ取り上げたかったのです。執筆者としてはちょうど日本史研究会・歴史学研究会共同編集の『日本歴史講座』の第8巻(1957.5刊行)で津田歴史学について上田正昭が書いていてその上田を考えましたが、まだちょっと。ここは井上光貞先生にお願いできないかと思ったのですが、当時、『歴史と民族の発見』『続』で石母田正先生がそびえるようにしていて、その分、井上先生とは距離をとっていたのです。

● 執筆時期は覚えていませんが、井上先生は津田について結構書かれていますよね。お願いすれば、引き受けてくれる可能性は十分にあったのではないですか。

○ 当時、私は(東大文学部)日本史研究室の青木和夫さんとは付き合っていましたが、井上先生とは直接のコンタクトをとっていなかったのです。それで青木さんに相談したのですが、「井上先生は今は無理だ」と言われて、それであきらめてしまったのです。引き受けてくれたかどうかはわからないけど、直接コンタクトをとることなく終わってしまったのは、惜しいことをしたな、と思っています。

● そうですね。もし、このシリーズに井上先生の『津田左右吉』が入っていたら、と思うとワクワクしますね。このシリーズの意義、戦後歴史学のあり方が異なっていただけでなく、歴史と現代の見方などが今とは違っていたかもしれませんね。

 シリーズはほかにはどのようなものを手がけられたのですか。『日本歴史講座』と「近代日本の思想家」は併行して進んでいたのですね。

〇 『日本歴史講座』(全8巻、1956.6開始)は、遠山さんから、東の歴史学研究会と西の日本史研究会が共同で歴史の講座を作ったらいいぞ、と言われたのです。それで西は門脇禎二さんが中心になってくれました。先日なくなられましたね(6月12日)。その後、両研究会による講座を東大出版会が続けていることに感謝しています。

● 第4次講座まで続いております。門脇先生は主著といわれる『日本古代共同体の研究』を東大出版会から出されていますね(1960.7)。

〇 1959年に私が退職してからの出版だったと思います。

 『日本歴史講座』は新書の箱入りで、それ以前に同じ装丁で作ったのが『日本文学講座』です(全7巻、1954.11開始)。これは東大出版会では初めてのシリーズ物だったのではないかな。西郷信綱さんが中心となってくれました。西郷さんには『万葉私記1、2』を出してもらっています(1958.5、59.7)。

 それから判型はB6版で箱入りの『日本美術史叢書』も作りました(全7巻、1956.11開始)。この母体となった文化史懇談会には辻惟夫さんも参加していました。『日本美術の歴史』はいいですね。通常は何人かで分担して書くのですが、通史を辻さんがお一人で書かれたのはすごいですね。懇談会の当時は、辻さんは末席にいるという感じでした。

● そうですか。辻先生もご参加されていたのですか。東大出版会の企画としては『日本美術の歴史』は『日本美術史叢書』の延長線上に位置づけることもできるのですね。叢書の刊行開始が1956年、『日本美術の歴史』の刊行が2005年。ここにも半世紀をつなぐ糸があったのですね。

〇 そうですね。叢書の装丁の文字を宮川寅雄さんが書きましてね、それが会津(八一)ばりなのですよ。ちょっと・・・

● 宮川寅雄さんは書もなされたのですか。

この叢書の中の吉沢忠著『渡辺崋山』などは、今年の3月に刊行されたドナルド・キーンの『渡辺崋山』でも註で取り上げられていて、50年後の今でも意味のある本なのだなと思いました。

 お話をうかがっていて、山田さんら先輩達が敷いたレールの延長線上で今われわれが出版活動をしていることを改めて強く感じました。

「近代日本の思想家」シリーズ刊行開始50年になる2008年の1月に『吉野作造』の刊行をいたします。1958年はちょうど東京タワーができた年ですし、ダイエーができた年です。2008年は新東京タワーが着工される年です。シリーズを企画し執筆依頼された1956年は、経済白書に「もはや戦後ではない」と書かれた年で、日本の国連加盟が承認された年です。

〇 そうですか、東京タワーですか。象徴的ですね。ちょうどその前後は、戦災から完全に立ち直り、新しく羽ばたこうとしていた時期なのでしょうね。今から思うと、そういう時代を背景として、新しい挑戦をしたいと考えたいろいろな企画のひとつが「近代日本の思想家」だったのかもしれません。

● 新刊の『吉野』に先んじて、「近代日本の思想家」既刊10冊の新装版の刊行をこの9月にする予定です。普及のためにも、エッセーのご執筆などいろいろとお願いしたいと思いますし、また、内容見本に載せる「推薦のことば」をどなたか大家にお願いする際にはお口添えなどご協力をお願います。

 完結を記念してお祝いをしようか、と言っているのですが、著者がどなたがご出席できるか・・・

〇 古田光さんはこの3月に亡くなられましたから、11人の著者のうちご存命は、遠山、色川、松本となるでしょうね。

● このシリーズにかかわった編集者は、「あとがき」で触れられている名前で数えると、山田さんも含めて7人になりますが、そのうち中平さん、斎藤(至弘)さんは亡くなられました。 

50年前に蒔かれた種が、このように多くの人を動かし、出会いを生み出していることに大きな感慨を抱きます。この新装版の刊行と『吉野作造』の新刊刊行とが、新たに人を動かし、出会いの場を創造することを期待しています。今日はどうもありがとうございました。

 (了)