石原吉郎『望郷の海』について、2009年10月27日に「私の一冊」として千代田図書館でのセミナーで話した旧稿が見つかりましたので、ここにあげます。
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「私の一冊」ということで私がお話しようと思うのは、石原吉郎という詩人の『望郷と海』というエッセイ集です。筑摩書房から1972年12月25日の奥付で刊行されています。
本は何度でも読み返すことのできる優れた入れ物であります。しかし、一人の人間が一冊の本と出会うということは、ある状況に生きている一人の人間がある時点においてある本に遭遇するという、1対1の絶対瞬間の出会いであり、一期一会であると思います。わたしが『望郷と海』と遭遇したのもそのような意味での1対1の絶対瞬間の出会いであったと思います。
石原吉郎という人がどういう人かは、一行でいうならば、1915年生まれ、シベリアに抑留され、1953年に帰国。詩人。1977年死去。
石原吉郎において圧倒的に大きいのは、ソ連に抑留され重労働25年の刑を宣せられ受刑したことであり、また日本に帰国して「シベリア帰り」として特殊視され、いわば自らの故郷において精神的に「抑留」されたという経験です。
そのような中で言葉を見いだし、詩をつむぎ、エッセイを書いたわけです。その第1エッセイ集が本書です。
私が本書に出会ったのは、新聞書評がまだ影響力を持っていた時代と言うべきでしょうか、刊行された翌年1973年2月25日に掲載された朝日新聞の書評によってです。ずーと本に挟んでいましたので、参考のためにコピーを用意しました【書評は掲載略】
今と比べると文字が小さいですね。また、書評者の名前が記載されていませんね。とにかくこの書評で心を動かされることがあり、買って読み、魂がふるえるほど震撼したのです。一期一会です。今、その魂の震撼を再現することはできません。
本書は第11回歴程賞を受賞しました。それを受ける形で1973年10月13日読売新聞に石原吉郎は一文を寄せています。これもコピーしました【これも略】。著者によりますと、エッセイを一貫している主題は「なにげない日常の、目もくらむような恐ろしさ。」ということです。本を見ますと、主題は「なにげない日常の」ではなく「シベリア収容所体験という非日常の」ということになります。しかし石原は「日常の」というのです。
この日常と非日常のはざまを架橋する、あるいは架橋することを断念する石原の「沈黙と発語」が本書の全体であり、彼の表現のすべてであると思います。
では、私はそのときどのような日常と非日常を生きていたのでしょうか。
本が刊行された1972年は私は20歳であり、その年の2月には連合赤軍のあさま山荘事件とリンチ虐殺事件の報道がありました。11月8日には私のいた大学である政治党派による一般学生のリンチ殺人事件があり、私も義憤からその政治党派を批判する運動に1973年に関わりました。そのような閉塞状態において、いわば精神的に抑留されるような状態において『望郷と海』に出会ったわけです。
「希望が虚妄である」ことには慣れていましたが、「絶望もまた虚妄である」ということを身にしみて実感したのは、この72年、73年であったと今では思います。
その個人的な抑留状態はさらに続きます。1974年8月に丸の内三菱重工爆破事件を起こした東アジア反日武装戦線が翌75年5月に逮捕され、そのメンバーの姉妹が私の郷里の同世代の人間であることが判明しました。
そのような日常と非日常のはざまに生きていて『望郷と海』に出会ったわけです。また、一期一会という意味は、そのような時代を20代初めに生きたということです。
すこし話題を本に戻しましょう。本書で著者がフランクルの『夜と霧』を引いているので、みすず書房から刊行されていた霜山徳爾訳の本を読み、これからも大きな衝撃を受けました。これについいては、今回のセミナーでみすず書房の持谷社長が触れています。『夜と霧』もおそろしい本と思いましたが、一期一会の本とは思いませんでした。
自社の本をあげるのはいけないのかもしれませんが、この『望郷と海』に触れた本をご紹介することをお許しください。それは、松浦寿輝氏の『クロニクル』という文化時評の本です。東大出版会のPR誌である『UP』に連載したものを中心として編まれたものです。2007年4月の刊行です。その末尾に納めたエッセイで『望郷と海』に収録された「ペシミストの勇気」について次のように書いています。
《これは恐ろしい文章だ。美しいだの感動的だのといった、共感や狎れ合いに汚染された安易な形容を弾き返し、読む者をただ粛然とさせその口を噤ませてしまう文章というものがごく稀にあるが、その筆頭に挙げられるべきものがこれである。その理由の一つは、ここで石原が描いているものが或る絶対的な沈黙それ自体だからでもあろう。》
石原の文章を挙げないでその評価の文章を読み上げていて申し訳ないのですが、松浦は「絶対的な沈黙それ自体を描く」と表現しています。石原は「沈黙と発語」という言葉を使いました。沈黙とつりあう発語がありうるか、と問うたと思われます。
私は、この「沈黙とつりあう発語」ということを編集の理想としてきたわけですが、大学出版会が扱うものは、「対象を的確に指示する表現」が求められるのであって、その意味では木によって魚を求めることをしてきたのかもしれません。ただ、学術書とかに分類されるものにも稀に、本当に稀に「沈黙とつりあう発語」というべきものがあることを一言述べておきたいと思います。
とても本選びの参考になるような話にはなりませんで、申し訳ありません。ただ、『望郷と海』のような本があったということ、私の中には今もあるということ、そのことを皆様に伝えたいと思ってお話しました。